青春フォトストーリー
私のアルバムから<4>
別冊モーターサイクリスト
※1997年12月号に掲載された記事の転載です。

日本陸軍曹と祖父
群馬県太田郡竜舞 近藤真一 (42歳)

 今年、家を建て直したときに、押し入れから出てきた祖父(近藤保蔵=中央)のアルバムからです。覚え書きによると昭和2年、世田谷(東京都)の陸軍演習場で、整備の合い間に写したものです。近所のお年寄りの話では当時、オートバイ(サイドカー)は伝令用だったそうですが、こんなのに乗って走り回っていたのかと思うとうらやましい限りです。インディアンとハーレーダビッドソン(右)です。風切りに軍属の星マークが見えます。

2、3歳ころの女房
秋田県鷹巣町脇神 明石宣雄 (38歳)

 女房が2~3歳のころです。実家の裏手に墓地があり、そこでのものです。この小生意気なそうな顔を見たとき、私は不整脈になりそうでした。スクーターは'62年式ラビットジュニアS301、125ccのようです。

スズキの応援で遠乗り会
栃木県下都賀郡都賀町 中島泰助 (62歳)

 昭和32~33年ころ、スズキ自動車の応援を受けて栃木市から、日光までの遠乗り会を行ないました。日光東照宮前の駐車場で、「コレダ号」と入った宣伝カーの前の、右からふたり目(ツナギに革ジャンパー)が私です。バイクはスズキST2型です。
前方の3台は、'56年に発売されたコレダST2、125cc。左の2台はフォークアウターチューブに塗装保護の紙が巻かれた新車と思われる。コレダは、群雄割拠するメーカーのなかで、スズキのバイクは優秀で、「これだ!」に由来。創業時から'70年代後期までスズキは、2サイクルメーカーのイメージが強かった。 「實用第一」と旗にあるように、'50年代の日本製バイクは皆、運搬の道具=実用車だった。また、趣味でバイクに乗るような人は、高価な外車に乗っていた。当時の日本車がおしなべて欧州車やアメリカ車を手本にしたように、国産車と外車の間は雲泥であった。左手後方は'55年発売のST1。ダストブーツ付きフロントフォークの1からST2ではブーツが廃止され、スチールカバーになり、これすら当時は新鮮だったが、輸入車のほとんどはすでに、リヤサスはスイングアームがポピュラーだった

 スズキ コレダ号 TT250 1956年。'56年に23万円で購入し、現在も月に1度くらいは走らせています。ツナギには、鈴木自動車工業=SJKのマークが、胸にあります。
'50~'60年代のスーパーカーは、まぎれもなくアメリカ車だった。なかでも'10年代にエンジン始動、点火、ヘッドライトの必須項目をいち早く電化したキャデラックは、1ドル=360円時代の超・超・高級車だった。その憧れがどれほどかは、「コレダ」TTを見れば一目瞭然である。このカブトガニのような(失礼)スタイルは、2輪車のキャデラックを目指しものであり、リヤに伸びたモールはまさしく、飛行機の尾翼イメージした、アメ車のリヤフェンダーのフィンそのものである。
'50年代の2サイクルは4サイクルエンジンに比べて、安定性が劣るとされていたが、その評判を一気に吹き飛ばし、2サイクル250ccエンジンが実用期に入ったといわれたのはコレダ250TT以降であるが、TTのエンジンの手本になったのは西ドイツのアドラーであり、ことほど左様に日本車は、欧米車に追いつけ追い越せだった。じゃすいだがTTは、マン島ツーリスト・トロフィーから採ったものと思われる。'60年からスズキは世界GPに挑戦を開始している。もちろん2サイクルエンジンでだ!
リヤシート後方の木の蓋は家庭用ゴミ箱。左隅には「覚せい剤追放」と今日的ポスターらしきモノが見えるが、当時のそれはヒロポンである