青春フォトストーリー
私のアルバムから<>
別冊モーターサイクリスト
1998年2月号に掲載された記事の転載です。

我が北海道庁時代
東京都八王子市散田町 若林宏二 (66歳)建築設計


6万円で買った中古のトーハツSK54で、やっと全舗装になったばかりの札幌から小樽に向かう国道で、友人の錦ちゃん=中村君(右)と昭和31年9月ころの写真。SK54は6.5psと非力で、チェンジペダルのストロークがとても大きくてへんてこな具合でした。錦ちゃんはバイクに乗りませんが、札幌に行くたびに今日でも、旧交を温めています

 ウルトラベテランライダーです。現在までの43年間、あらゆる国産バイク(90~750cc)全23台に乗ってきて、今はXV400ビラーゴ、ボルティ250、シグナス125、そしてクラシックの集会用にヤマハ90HS1を愛用し、年間走行距離はシグナスが約1万km、ボルティ8,000km、ビラーゴとHS1が少々で、約2万5,000kmくらいです。
 今回の写真は、私にとって最初のバイク=ベンリイ90の次から2台目をお見せします。トーハツSK54は、400台弱しか生産されなかった稀少車(貴社発行の「日本モーターサイクル史」では間違えて、"PK54B"になっています。SK54は150cc、6.5ps、3段変速です) 当時、私は北海道庁の建築部に勤務していたので、道内をひとりでよくツーリングしました。


2台目のバイク、トーハツSK54に乗って、夕張の姉の家より出発する41年前・25歳の私。昭和31年10月ころ撮影。半長靴(本革)とグローブを張り込んだ



下宿で同宿の女性に(GFだけど、今の妻ではない)モデルになってもらって3台目の愛車=ヤマグチD-800(新車で14万5,000円)に跨ってもらった。昭和34年10月ころ。札幌の自宅前で。海軍の飛行帽にゴグル、革ジャンに半長靴(本革) グローブを張り込んだ。結婚したときに背広は一着しかなかったが、高価な革ジャンは持っていた。ヤマグチのホダカ製200ccエンジンは快速車だったが反面、低速走行をしているとプラグがかぶり、デリケートな面もありました。札幌には当時ヤマグチやトーハツのほかにメグロ、宮田、IMC、ホンダの代理店がありました。ヤマグチはヤマハYD2を買うときに下取りに出しました

■若林さんが半長靴を「本革」としたのは当時、革製品=高額商品で、コロッケのなかに動物性タンパク質=肉片を発見しただけでその店のは「うまい」と評判になったのである。だからステーキなんか多くの人が食べたことがなく、反対に鯨肉はポピュラーだった。ヤマグチには自社製エンジンがなく、ガスデンやホダカからエンジンの供給を受けていたアッセンブリーメーカーだった。 「日本モータサイクル史」のP.160左下、「トーハツPK54B 100cc」に対するご意見は、若林さんのご指摘どおり「SK54 150cc」の誤りです。なお、SK54の主要諸元は、全長2,060 全幅700 全高970 軸距1,320(各mm) 空冷2サイクル単気筒 ボア・ストローク56×60mm 148cc 圧縮比7.0 最高出力7.1ps/5,000rpm 最高時速90km 始動キック 前進3段 タイヤ前後2.75-19です。同時に、P.159のトーハツPK54BRは「PK54B」に、また、SK54 150ccは「PK54BR 125cc」にややこしくなって恐縮ですが、それぞれ訂正させていただきます。

(編集部アルバム係)

砂利道の東北へ伴走
宮城県栗原郡花山村沢天神 菅原 尉 (61歳)大学教員

 私にとって3台目のバイクがこの陸王で、ワシントンハイツ(東京・練馬区にあった駐留軍宿舎)の米兵から4万円で買った'43年式VFD。外人ナンバーが付いていたために廃車手続きが面倒で、運転免許試験場と陸運事務所のある品川・鮫洲に行き、車検を受けました。この年式の陸王とハーレーは足踏みクラッチで、左手を使用して前ブレーキと変速レバー、手動進角(始動、交差点で停止のときに電気位置を遅らせる機構。電気位置が高いと、キックのときにケッチンを食う)、潤滑油強制送り装置(長い坂などを登るとき、ガソリンタンク横のオイルポンプを手で押して、潤滑油をエンジンに送る)、手信号(方向指示器がないので、左手を使う。当時はフラッシャーがなくても、手信号で車検は通った)という、重い車でよくこれらの操作ができたものだと感心しています。都道府県名のないナンバープレートは東京都の証。春休みを利用して友人と2台で、東北へドライブに行った昭和31年4月・19歳のときのもの。鳴子温泉(宮城県)で、チェーンが切れて困っているところです。


埼玉県飯能市の久下氏(左)から譲り受けた'45年式陸王VFD(右)1200ccで、久下氏が岩手県へ出張するというので、私も春休みを利用して伴走した昭和33年5月のものです。当時は栃木県・黒磯までしか舗装路はなくて、モウモウたる土煙のため学生服は白くなり、あわてて途中で作業服を購入しました。以前乗っていた'43年式の陸王よりスピードメーターが大型化され、タイヤも太くなったので安定感はありましたが、左手の操作は同じでした。テールランプ類がハーレーとそっくり(陸王はハーレーのコピーでしたが、性能そのほかは雲泥の差でした)。当時は後部に、荷台とかバックを付けないのが流行していました。ナンバープレートは数字のみの4桁で登録順。この後自動2輪の登録が増え、9999の次に「あ0001」になったことなどを、40年前に2日がかりで、東京からここ(岩手県一関県境)まで来たときの写真を見るたびに、思い出します。
 現在は念願のハーレーダビッドソンFLHTCに乗り、片道約20kmの通勤に、そして交通安全のパレードなどに参加するなど張り切っていますが、当地の新年は雪で、とてもバイクには乗れません

MFをナメ回した記憶
北九州市小倉区長行西 伊藤久喜 (52歳)自営業

 中学生だったころ、早朝、兄のスーパーカブC100にソッと乗っていましたが、高1の夏休み(昭和35年8月)に愛媛県西条市の母の実家へ行ったら、10歳以上年長のいとこがドリームに乗っていたので、毎日ドリームをナメ回していたのを懐かしく思い出します。


■写真のドリームは'56年11月発売のドリームSB=14.5ps/5,400rpmの発展型で、テレスコピックフォークだったSBに対し、MFはボトムリンクを採用。また、エキゾーストパイプが「バナナ」型になっていたのがMFの特徴。最高出力は20ps/6,500rpm、最高時速120km/h、車重176kg。価格17万4,000円。フロントタイヤの左斜め上には地下足袋、ナンバープレート横には下駄が見える。靴は貴重品だったし、玄関と縁側の引き戸には障子紙が張られていた(まだアルミサッシュはなかった) 古色蒼然とした木造建築が当たり前の時代に、メッキをふんだんに使った工業製品=MCは、あたりを圧倒するほどのまばゆい輝きを放っていた。伊藤さんは恐らく、その文化的な香り=貴重品を毎日ナメまわすようにいつくしんでいたことが、容易に想像できる。
(編集部・アルバム係)

いとこのMFを散々ナメ回した翌年また行ったら、なんとC72に替えていたので、これまたよーく磨いたものです
■ホンダ初のツインはC70で、C71は70にセルモーターを付けたのが特徴。そして、ホワイトタイヤを履いたC72は、外観こそC71に酷似しているがエンジン、とりわけクランクまわりの耐久性が大幅に向上されている。最高出力は71の18ps/7,400rpmから20ps/8,000rpmに。価格は両車17万2,000円。72のエンジンを2キャブにするなどしてチューニングし、パイプフレームを与えたのが有名なスーパースポーツCB72である。
(編集部・アルバム係)

昭和37年冬。時給60円くらいのアルバイト時代に、2万8,000円で買った中古のC102(C100のセル付きモデル)と17歳の私。高校卒業までよく乗り、シリンダーをボーリングに出してピストンを替えたり、バイクのことならなんでもよくやりました。関門国道トンネル入口で。向こうは門司市。この日=1月10日の走行距離は140km