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アルバムに写る父・一岡平治
東京都渋谷区笹塚 増山 起代子
(59歳)主婦
父・一岡平治は、京都市高倉三條に生まれ、昭和20年5月、終戦(8月15日)を目前にしてまことに残念ながら、ビルマで戦死いたしました。そのとき私は7歳でしたが、以来父のアルバムを大切な思い出にしていましたところ息子が結婚し、嫁の父上がバイクのご趣味があり、「お父上は、エンスージャストだったのでしょう」とのこと、そして、「別冊MCに写真を送れば、もしかして、お父さんをご存知の方から連絡があるかも知れない」と言われ、応募いたしました。もしご連絡をいただければ、父もきっと喜んでくれると思います。
▲1934年型H・Dと父・一岡平治。このオートバイでの遠乗(ツーリング)風景は多いのですが、父がポーズをつけているのは、これのみです
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 BMW
R11と父。アルバムには、「愛知川橋上ニテ」とあります。後方は、父とご一緒なさった栄子氏のバイクで、ご夫人同伴の様子です。昭和9年8月撮影
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 「昭和10年8月。東京ノーストップ遠乗記念 芦ノ湖」とあり、ナンバープレートは、京134と読めます
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 数カットあります「東京ノーストップ遠乗記念」の1枚で、「山田輪盛館前ニテ
左側 店主」とあります |
■工業製品=MCは、大量生産することで安くなるが、太平洋戦争以前、農業から工業化への過渡期だった日本は、まだ様子が違っていた。戦前の我が国には身分制度が存在し、一般庶民がバイクに乗ることは有り得なかった。米が1升2銭くらいのときに、輸入バイクは1,000円以上と、土地付き家屋よりも高価だったから、趣味でバイクに乗れるのは、しかるべき身分か、軍属などに限れられていた。
'34年型のH・Dは、Vツインの1200ccとアルバムにはある。SVのツインは'29年から生産され、'32年に1200ccが加わり、やがてこれが大東亜戦争を前にして、日本でKD=ノックダウン生産され、「陸王」になった。
BMWのプレスフレームは、戦後の日本車が手本したことで知られているが、日本のそれは部分板金した部材を溶接・一体化して、プレスチャンネルフレーム風にしたモデルが少なくなかった。戦後日本には、薄板鋼板も大きな油圧プレス機もなかったから、さもありなんや、なのである。
BMWのプレスフレーム初のスポーツモデル=R16と同年に発表されたのが、写真のSVツインのR11である。風切りには、飾り欧文字で"H.ICHIOKA"と読める。
芦ノ湖(箱根)を訪れたことのある人なら、湖面と山並みはハハ~ンと思うだろうが、それにしても63年前のなんとのどかなことよ。'35年といえば、目黒製作所がメグロの第1号車を製作し、宮田製作所がアサヒ号の量産を始め、中川幸四郎商店(大阪)がキャブトンを発売した年である。
「山田輪盛館前ニテ 左手 店主」からは、最終目的地が、アリエルの輸入元・神田(東京)の山田輪盛輪=山輪だったことが想像できる。店主は創業者の山田光重。このショットで、バイクは'30年初期のカムチェーンOHCのアリエルスクエアフォアだということがわかるが、500と600ccフォアのどちらかは不明。600は当時1,300円前後だったようで、これら輸入オートバイは、大手輸入・販売店の草分け的存在だった山輪でも、月に1台売れるか売れないかの時代だった。
エンジン発熱量の少なかったこの年式のフォアはスムーズだったが、サイドカーを引くようになってパワーが求められ、'50年代にはOHVの1000ccになったが、外気温が高くなるとスクエアフォアのリヤ2気筒が、オーバーヒート気味になる問題も抱え込んだ。
(編集部・アルバム係)
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