青春フォトストーリー
私のアルバムから<15>
別冊モーターサイクリスト
※1998年11月号に掲載された記事の転載です。

車歴では負けないつもり
大阪市東大阪市古箕輪 竹村憲一 (65歳)農業

 戦前、家の近くには盾津(たてず)飛行場があり、小さいときから航空機や家の耕耘機などに興味があったので、15歳ころから自然とバイクをいじり始め、定年までバイクで通しました。
 国産車ではライラックやヤマハが好きでしたが、昭和50年に大西モータースが日本橋から東大阪へ移ってきたために外車に移行。ドゥカティ450デスモ、ダーマ900、BMW R75、90S、トライアンフ4台、モトグッチ3台、ラベルダ1200、1000コルサ、H・D1200スポーツスター、ダイナ、ウルトラ、ビモータなどを乗り継ぎ、現在はマーニ1100スフィーダ、ボンネビルT120RやヤマハSRを愛用中です。銀行勤めも定年になり、最近ではバイクに乗ることが、もっぱら仕事?になっていますが、車歴に関しては、誰にも負けないつもりの一匹狼です。


昭和31年、23歳のときの私とライラックUY250。奈良公園で


昭和28年、20歳の私とヤマハ250YD-1。自宅の庭で

■シャフトドライブを特徴にしていたのが、丸正自動車製造(株)のライラック。鹿とともに写っているのは、'55年の浅間高原レースの250ccクラスで優勝したSY型250(市販車はプランジャーだったが、浅間マシンはスイングアームに改造されていた)のモデルチェンジ車で、'56年に発売されたUY型250。
 一方、ビニール製の燃料タンクカバーにYAMAHAと入っているのは、'55年に創立されたヤマハ発動機3作目のYD-1。一作目は125㏄のYA-1=13万8,000円で、二作目が175㏄のYC-1=16万円。そしてヤマハ初のツインが250YD-1で18万5,000円。YD-1の特徴ある形状の燃料タンクは、「鉄兜タンク」の愛称で親しまれた。
(編集部・アルバム係)

5クラス制覇した年の私
長野県安茂里 倉石純哉 (32歳)会社員

ペーパードライバーだった父の足はもっぱらスーパーカブで、62歳になった今日でも、50ccのリードでどこへでも出かけています。
 私が生まれて間もなく父は新潟へ転勤になり、足に使っていたカブに私を乗せ、プールなどに行ったのが、今日私がバイクが好きになったルーツだと考えています。'66年はホンダが50/125/250/350/500ccの世界GPソロ5冠メーカーチャンピオンを獲得した記念すべき年です。

極初期型のスーパーカブC100にまたがる11ヵ月の私。'66年8月撮影

半世紀前の二葉
群馬県伊勢崎市喜多町 高橋良平 (66歳)建築業

 父と兄弟6人皆バイクが好きで、仲間を交えていじったり、いろいろな所を走り回っていたころから間もなく、半世紀になろうとしています。

ヤマハスポーツ250YDS1に乗る23歳ころの私。写っているのは後方のYD2との2台だが、兄弟皆で昭和37年ころに、軽井沢(群馬県)へツーリングに行ったときのスナップ

昭和25年ころ、群馬県の自宅前で愛車のダイナモを修理中の父・慶二。サイドバルブ、単気筒500ccのトライアンフは、ハンドチェンジ式だった

38年前の思い出
大阪府八尾市上ノ島町北 佐々木 健 (59歳)療術師

 昭和32~33年ころ、甲子園(兵庫県西宮市)近くの従業員80人くらいのクリーニング会社に住み込みで働いていた当時、阪神タイガースの独身寮(若竹荘)をはじめ、毎日お得意先300軒ほどをホンダベンリイで回っていました。当時は国道以外には信号機がなく、阪神国道に出ると、カミナリ族がよく走っていたものです。

(株)白洗舎から営業=外回り用として、私に貸し出されていたベンリイ125と21歳の私。神戸市須磨浦海岸国道2号線上で昭和32年7月撮影。34年10月に私は白洗舎を退職しましたが、その後1~2年で会社は、バイクからダイハツミゼット(軽3輪車)に営業車を替えたようです