青春フォトストーリー
私のアルバムから<22>
別冊モーターサイクリスト
※1999年6月号に掲載された記事の転載です。

父自慢のバイク
大阪府羽曳野市野々上 木村好和 (36歳) 自動車学校指導員

父が話をするとき、いつも、「スズキのスポーツに乗って……」という枕詞から始まることが多かったのですが、母の話ですとそのバイクは、父が初めて買ったもの(中古)だそうで、その後間もなく、スズキのスポーツは、水色のバイク(車種不明)に買い替えたそうです。

昭和39年6月15日。3歳ころまで住んでいた東大阪の家の前だそうです。たぶん、スズキスポーツ80K11と思われるシートに座っているのが2歳の私です

 


メイトと交換をしたCBM72
大阪府羽曳野市羽曳が丘 増井久子(63歳)主婦
学校を休んで、ドリームCBM72と友人のヤマハスポーツYDS3にタンデムで、筑波山(茨城県)へツーリングへ行きました。CBM72には一文字ハンドルを短く切ったり、また、CL72用のアップなど付けましたが、最後には標準型に戻しました。当時は道もすいていて、学校から帰ると近くのバイパスまで行き、クルマのこないのを見計らって、よく最高速テストをやったのを思い出します。現在は11年目になるベベルのドゥカティ900SSを愛用しています。
 追伸 投稿したドゥカティ900SSのエンジンO.Hの記事を'89年のNo.133に掲載していただき、有り難うございました 。

昭和44年、17歳の私(右)と友人、筑波山で。'63年式のCBM72は、旭市の石川サイクル(現・ホンダ販売石川)で、5万円くらいの中古車を祖母に買ってもらいましたが、高校卒業前の45年2月、石川サイクルでヤマハメイトと交換しました

 


マムシの思い出 兵庫県姫路市嵐山町 三宅 修(48歳)会社員
北九州市門司区に住んでいる76歳の叔父は乗り物好きで、スクーターで遠乗りをするときにはよく私を誘い、道中でよくチェーン調整や修理をやっていました。交通安全パレードに参加した帰路、平尾台へツーリングに行ったとにきひいた蛇が、マムシだと教えられました。娘がふたりだった叔父は、スクーターからスバル360(軽4輪車)に交換したとき、自動的にラビットは私のものになりました。

 

交通安全パレード参加中の休憩で、トーハツの隣のメグロZ7の白バイに跨る私。後方の軽4輪はマツダキャロル360

昭和38年5月3日、交通安全パレードの帰りに平尾台(カルスト高原)へ行ったときの11歳の私とラビットS72

 

■'63年以前のスズキは、車名を「コレダ」といった。
 ホンダに続いて'60年6月から世界GP(マン島TT)へ挑戦したライトウエイト=125ccクラスの鈴木自動車工業のマシンは、空冷2サイクルツイン、カウリングに日章旗をあしらった「コレダRT60」だったが、海外では、オートバイは「これだ!」 に由来する車名が通用しないために「スズキ」になった。
 スズキがGPへ挑戦し出した当時、2サイクルエンジンはまだ安定性に欠けていたが、「ホンダが4サイクルなら、うちは2でいく」と苦難の道をあえて選択したのは、スズキ2代目の技術屋社長・鈴木俊三だった。やがて、「2サイクルのほうが、効率的に優れている」という先見の明は報われ、'62年にGPに新設された(現在中止)ウルトラライトウエイト=50ccクラスの初代世界チャンピオンにスズキはつき、翌年は125とのダブルチャンプをもぎ取り、2サイクルの優秀性を広く世界にアピールする一方、GP技術をフィードバックした50、125の量産車、さらにはコストは50、性能は125という位置づけで、'62年5月から生産を開始したのがプレスバックボーンフレームの80K10。 80K11は、K10にアップマフラー、ダブルシート、軽快なフロントフェンダーなどを装備したスポーツモデルで、80Kシリーズは、「中間排気量車」という新語を生むほどの爆発的ヒットをしたクルマとして有名。ボア・ストローク45×50mmの79cc。最高出力7.3ps/7000rpm、最大トルク0.75Kg-m/6000rpm。当時の価格は7万7000円だった
(編集部・アルバム係)