青春フォトストーリー
私のアルバムから<23>
別冊モーターサイクリスト
※1999年7月号に掲載された記事の転載です。

45年前の六甲山
大阪府摂津市鳥飼銘木町 三村義夫(61歳) 銘木業

オートバイ好きの父の影響もあって、16歳のころから現在まで、私もバイクに乗り続けています。六甲山ドライブウエイは、23歳のころによく走りに行った所です。休日にはバイク好きが集まり、ヤマハYA1やドリームCS76などの改造車で、山頂までの往復タイムを競い合っていました。当時は国産車の性能も低く、トライアンフやBSAの大型バイクは憧れの的でした。現在、休日にはGL150OやXJR1300などで、ツーリングを楽しんでいます。

六甲山ドライブウエイ登り口で、23歳の私と'56年式ライラックUY250。ヘルメットの着用義務はなかった。料金所前にはいすゞが'53年にルーツ社(英)と技術提携をし、国産化を完了したヒルマンミンクス、後方に2台のトヨペットウラウンが見える

 

休憩所でのバイクたち。大を8522が私の愛車。ほかも皆250cc。'56年のライラックの生産台数は9893台で11位。1位はホンダの5万5045台、2位はトーハツの4万9958台だった。ダブルシート装着車は写真になく、普段は皆、商用として使われていたことを物語っている

 


モトクロス出場
群馬県吾妻郡草津町大字草津 内嶋貞夫(49歳)公務員
オートバイ好きが集まって「吾妻オートバイソン」を結成した'69年10月、夜通し走って伊豆丸野山高原(静岡県)に着き、MCFAJの第25回全日本モトクロス、ノービス250ccクラスにDT1篠原スペシャルで出場。このレースには、その後ドライバーとして活躍する星野一義選手が、2輪最後のレースとして出場していた。

篠原モータースで改造したDT1スペシャルで丸野山を走る19歳の私。DT1は父がくず屋に売却をしたが、浅間火山レースに昔連れていってもらったので、父に私は何も言えなかった

 

'71年5月、ヤマハトレール360RT1で、弟とタンデムで湘南から九十九里方面へツーリングにいったときの21歳の私(右)。写真は金谷か久里浜のフェリー乗り場

 

■第25回全日本モトクロスにカワサキのワークスライダーとして出場した星野一義はセニア125cc1位だった。ちなみに2位はヤマハの鈴木忠男。また、MFJのモトクロス日本GP(九州)でも、星野は250ccクラスでトップを快走中にフロントがパンクをしてリタイヤ。星野が本領を発揮するのはこれからだと期待されながら4輪へ転向。その後の日産での活躍は、みなさん周知のとおり
(アルバム係)

宗谷岬 東京都杉並区下高井戸 磯部康夫(50歳)自動車整備士
夜22時上野発、夜行列車ではなく、定期便トラックの後ろについて4号線を走り、仙台で夜明け、またひた走り大間岬まで18時間。フェリーで函館へ。当時は青森?函館のフェリーがなく、旭川から稚内へ、信号機は名寄町に1ヵ所あるだけだった。宗谷岬を出ると砂利道になり、網走まで延々300Kmも走った。屈斜路湖への道は、タイヤが半分埋まるほどの砂利道だった。

 

宗谷岬で21歳の私とアリエル(英)と同じ茶色にペイントしたダブルシート付きの愛車、メグロSG250。購入はモーターサイクリスト誌の売買覧を利用した。昭和44年6月撮影