青春フォトストーリー
私のアルバムから<27>
別冊モーターサイクリスト
※1999年11月号に掲載された記事の転載です。

ベンリイ3台
大阪府豊中市上野東 橋本一雄(58歳) 食材卸売業

MCの走りの味はベンリイに始まってヤマハに移ったが、再びホンダに戻り、やがてBMWへ移って現在に至る。早いもので、「フラットツインクラブ」を設立して、今年で30年になる。

ベンリイスーパースポーツCB92と22歳の私。昭和36年元旦。初詣への出発前に撮影。当時ハイオクガソリンはリッター35円くらい。このベンスパは、吉田モータース(大阪上本町1丁目で現在も盛業中)から、'60年9月30日に新車で購入。やがてこの92を下取りに出し、ヤマハスポーツ260 YE2を購入した

 

16歳当時に乗っていた'54年型ベンリイ90。'55年10月29日撮影

 

'57年型ベンリイ125の荷台に座布団を敷き、友人(左)を乗せて奈良公園まで行った18歳の私

■木造建築の住宅を背景にしたごく初期型のOHV単気筒90ccベンリイはこの後、道交法の改正で原付2種が125ccまでに拡大され、車体関係もボトムリンクサスなどで一新されたJC58型へ発展。後方には和服で子どもをおぶう婦人も見える。'59年には初の125ccOHCツインの実用車、ベンリイC90がデビューし、それがC92になり、その92をベースにした全日本モーターサイクルクラブマンレース用のスーパースポーツが、ホンダの量産車で初めて5桁代の高回転高出力=15ps/10500rpmを発揮し、'59年のクラブマンレースで北野元が乗って優勝。メーカーを対象にした浅間火山レースレースにも招待され見事、CB92でダブル優勝を達成。写真の92の「ドクロタンク」に張られているステッカーは、アメリカ製添加剤のもので、日本におけるステッカーのはしりだった。CB92はあくの強いデザインと、リッター当たり120psという高性能で、「ベンスパ」として今日でも人気のあるモデルの1台だ。
(アルバム係)

おまけのコレダ
北海道河東郡音更町宝来北 村上隆紀(36歳)自営業
モダンな趣味だったカメラに凝っていた叔父が、モデル撮影会へ行って、友人(右端)を撮ったスナップです。スズキコレダST1(だと思う)は、同じカメラクラブの人が乗って行ったバイクだと、叔母はいっています。

仕事始めの写真。祖父の友人が勤務していた燃料会社では、ご用聞きには右端の赤トンボ=ヤマハ125 YA1を、配達用には左の3輪車を使用していたそうです。撮影は昭和30年代初頭

 

河東郡鹿追町扇ヶ原展望台付近で、昭和31年ころ撮影

 


格好よい父
奈良県奈良市あやめ池南
有泉久美子(45歳)主婦
実家にある写真のなかでも、現在70歳になる父が、一番格好いい1枚です。30歳代の中ごろで、私が9~12歳当時に1度だけ、このバイク(風切りには「宮崎県」 フェンダーには、「日之影町家畜保険衛生所」と読める=編集部アルバム係)の後ろに乗せてもらったことがありますが、発進のショックで落ちてしまい、スカートは破れるし怪我はするしで、嫌な思い出が残っています。父は今もスーパーカブ50で野山を走り、私は125ccのスクーターでフェリーを利用し、里帰りをしています。

 

町役場で農業関係の仕事についていた当時の父と、日之影町役場所有のメグロ250。昭和34~40年ころ、日向市細島港で撮影。父、30代の半ば

 


3世代ツーリング
兵庫県神戸市北区星和台 伊藤文明(74歳)自営業
バイク兼自転車店をやってた叔父の感化で、私もMCに乗り始めました。写真のハーレーは普段側車付きなのですが、単車にして走るほうが面白いので、荷のないときはソロで楽しみました。戦後間もなくはガソリンが統制品で手に入りませんので、ヤミ屋から18L3000円くらいで買い、当時2歳だった長男をサイドカーに乗せて、子守をしながら商売をしていました。その長男も今はFLSTCに、私もいまだ48年バイクから離れられずFLSTに、そして今年、孫がドラッグスターに乗り先日、一緒に南紀方面へ5日間のツーリングに行ってきました。

27歳当時の私と、'34年式ハーレーダビッドソン1200cc。背景は国道2号線で、自宅の前です。このハーレーは、商売を始めるために電話が必要になり、そのために売却しました(当時電話はなかなか引けなくて、権利をヤミ値で買ったものです)

 


我がバイク遍歴
東京都練馬区中村
穂谷野 勉(69歳)
なにかと思い違いもあるかも知れませんが、40年も前の懐かしくも切ない青春時代の写真です。止せばよいのに、息子が私のDNAを受け継いで2輪に12~13年のめり込みっ放し。親子で別冊を読んでいます。

米軍PXの通信販売部(戸塚デポー)勤務時代。写真のポインターコメットPC1は、昭和29年早々に購入ですから、ライダー歴はまだ8ヵ月くらいです。私にとって初めての2輪車ですが、長年の夢であったバイクが買えるとあって、小田原(神奈川県)から電車で東京・巣鴨の、駕篭町十字路周辺に何軒かあった中古オートバイ屋で6万円で購入し、道もよくわからないままなんとか五反田(品川区)へ出て、怖い思いをしながら国道1号を、半日がかりで小田原の自宅へ帰りました。このポインターは150ccで、箱根・強羅への坂道をローギアでも登れなかった非力さでしたが、2本マフラーに前後バンパー、前所有車が付けた両サイドの革カバンの重装備がとてつもなく当時は格好よく見えたのです。昭和28年10月、自宅前で。このポインターは、1年くらいで売却しました

 

ポインターの非力に泣いて、次は大馬力のキャブトンRTF(500cc)のバーチカルツインを、横浜・保土ヶ谷の中古オートバイ店から購入しましたが、かなり乱暴に乗られていたので、自分で車体をバラし、塗装とメッキは外注に出し、エンジンは平塚駅前1国の、1本馬入寄りの道を北に入った小泉内燃機でボーリングとピストンリングを交換してもらい、タイヤ、チェーン、ワイヤなどの消耗品も、金と半年くらいかけて完成にこぎつけた1台です。アメリカ製の革ジャン、Gパン、ブーツなどは、PXに勤務していた関係で購入し、25歳の若さに任せて得意になっていた昭和30年2月に撮影。週に1~2度は小田原~戸塚を単車で通勤し、途中、藤沢から枝道を少し登ると、国道間際まで大きく張り出した台地上に藤沢飛行場があり、帰りによく立ち寄っては飛行機を眺めたものです。藤沢飛行場は、戦時中に不時着飛行場として造られたのですが、現在はゴルフ場になっています。キャブトンではよく、ひとりでドライブに出かけましたが、茅ヶ崎の国道上を100Km/hくらいで走行中、ガクっというショックとともにエンジンがストップ。後輪がロックして横滑りをし、とっさにクラッチを切って事なきを得ましたが、クランクシャフトを折損するというトラブルに見舞われました。その後、キャブトン600でも同様のトラブルを起こし、キャブトンはエンジンに、重大な設計ミスがあったようです

自宅前で、ポインターと一緒に写したラビット。このほかにもう1台、爆撃機の尾輪を使った押しがけ式のスクーターがあり、これは補助車として何年も使いましたが、今になってみれば、写真のないのが残念です

 

とりあえずミッションだけを修理して6ヵ月乗り回してからキャブトン同様にレストアし、塗装は自分でライトブルーに塗り、タイヤは前後ともリキャップ(山かけ・再生)をして使用。ボーリング後エンジンを組み立て、庭で1日中アイドリングのまま慣らし運転をしていて、近所の人からうるさいと注意されました。
当時は用もないのにたびたび、東京まで遠乗りに出かけました。昭和32年1月

 

キャブトンにも飽きて次に目につけたのが陸王です。RT750の新車が確か37万円前後だったので、東京・杉並の人から、'53年式のRQを10万円くらいで譲り受け、ローギアの入らないハンドチェンジ3段の2速を使いながら、これも初めての左足動クラッチを操作しながら小田原まで帰りました。この陸王はキャブトン500のときと同じようにレストアをしましたが、別体式エンジンとミッションは修理しやすい車で、ミッションも自分で分解し、摺動部の摺り合わせをして修理完了。東京ナンバーのまま、6ヵ月ほど乗っていました。アロハシャツに木製のサンダル姿で、小田原から葉山海岸へ海水浴に出かけた26歳当時。ほとんど丸坊主のタイヤは、白ペンキでホワイトタイヤにしていた。昭和32年7月撮影

'57年撮影。マーロン・ブランド主演の「ならず者」というアメリカ映画が3年ほど前に上映され、日本のバイク好きのほとんどが観た主役のジョニーに憧れて、アメリカ人に頼んで通販の大手、「シアース&ローバック」から、ライダー用革製丸帽、革ジャンパー、Gパン、ブーツなど、当時の日本人ではなかなか手に入らなかったものを買い揃え、ジョニーになりきっていた当時の私